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Intolerance(邦: イントレランス)[1916]


監督 D・W・グリフィス

脚本 D・W・グリフィス

出演 リリアン・ギッシュ

   メエ・マーシュ

   ヴェラ・ルイス

   ロバート・ハーロン

   F・A・ターナー

   ミリアム・クーパー

   ウォルター・ロング

   トム・ウィルソン

   モンテ・ブルー

   ハワード・ゲイ

   エルマー・クリフトン

   ベッシー・ラヴ

   W・S・ヴァン・ダイク

   ジョセフ・ヘナベリー

   ジョセフィン・クローウェル

   ミルドレッド・ハリス

   カーメル・マイヤーズ

   トッド・ブラウニング

   エリッヒ・フォン・シュトロハイム

   フランク・ボーゼージ

   ドナルド・クリスプ

   ダグラス・フェアバンクス

撮影 ビリー・ビッツァー

編集 D・W・グリフィス

   ジェームズ・スミス

   ローズ・スミス

製作 ウォーク・プロデューシング・コーポレーション

配給 トライアングル・フィルム・コーポレーション

   小林商会

時間 180分

 1916年に公開されたアメリカ映画である。モノクロ・サイレント。監督・脚本はD・W・グリフィス、主演はリリアン・ギッシュ。

 いつの時代にも存在する不寛容(イントレランス)を描き、人間の心の狭さを糾弾した。この物語では4つの不寛容のエピソードが挿入されている。その4つのエピソードは、現代の(製作当時の)アメリカを舞台に青年が無実の罪で死刑宣告を受ける「アメリカ篇」(『母と法律』のストーリーにあたる部分)、ファリサイ派の迫害によるキリストの受難を描く「ユダヤ篇」、異なる神の信仰を嫌うベル教神官の裏切りでペルシャに滅ぼされるバビロンを描く「バビロン篇」、フランスのユグノー迫害政策によるサン・バルテルミの虐殺を描く「フランス篇」で、この4つの物語を並列的に描くという斬新な手法を用いて描いた。

 本作は巨大なセットを作り、大量のエキストラを動員させるなど、前作『國民の創生』よりも高額の38万5000ドルの製作費を投じ、文字通りの超大作となったものの、興行的に大惨敗した。しかし、4つの物語を並行して描くという構成や、クロスカッティング、大胆なクローズアップ、カットバック、超ロングショットの遠景、移動撮影などの画期的な撮影技術を駆使して映画独自の表現を行い、アメリカ映画史上の古典的名作として映画史に刻まれている。そんな本作は映画文法を作った作品として高い芸術的評価を受けているだけでなく、ソ連のモンタージュ理論を唱えた映画作家を始め、のちの映画界に多大な影響を与えた。

 もともとの長さはシュトロハイム監督の『グリード』(貪欲)並みの8時間だったそうです。映画史上で最も難解かつ、後世への影響が大きかったこの作品は時代がグリフィス監督に追いつけず、公開当時の興行は大失敗したために以後のグリフィス監督から大作を撮るチャンスを奪いました。難解だと言われ続け敬遠されてしまうこの作品ですが、現代の私たちが見るとそれほど難しさは感じませんでした。 表層的な理解に留まっているからかもしれませんが、視覚的にも精神にも訴えかけてくる巨大な映画です。重たくて興行受けしにくい「不寛容」というテーマとカットバックやクロースアップに代表される撮影技法のアイデアが満載された、まさに映画の父の作品です。 4つのエピソード、「キリストの受難」「バビロンの栄光と崩壊」「メディチ家による宗教に名を借りた粛清」「労働争議と労働者たちのその後」をリリアン・ギッシュの演じる母とゆりかごに揺すられる赤ん坊のモンタージュが相互に結び付けています。これらのエピソードを貫くテーマが「不寛容」です。 上映時間が160分を超える大作でありますが、前の作品の『國民の創生』と比べますと時間は変わりませんが、時間軸がずれて語られる脚本は当時の観客にはそれこそ「不寛容」だったことでしょう。 4つのエピソードの起承転結を全部ばらした後に、4つの「起」、4つの「承」という具合に順番に見せられるのはとてもくどくどしいものだったとは思いますが、人間は何も変わっていないことを理解させるにはこのような展開にする必要があったのでしょう。 時間の軸は5つあり、4エピソードとリリアンの語りの時間が存在します。最も大事なのは実はこのリリアン・ギッシュのパートなのです。揺すられるだけで自分からは、なにも出来ない赤ん坊は愚かで未熟な人間のたとえであり、リリアンの赤ん坊へ寄せる愛こそが「寛容」の世界への鍵として描かれています。 リリアンの時代では「寛容」は夢なのでしょうか。それとも「不寛容」を昔話として語っているのでしょうか、その興味は尽きません。製作されてから100年近く経った現代でも相変わらずの「不寛容」な世界に生きる我々をグリフィス監督はどう見るのでしょう。

 4つのエピソードの中で生きる人々は、ある者は「不寛容」から他人を攻撃し「死」に至らしめ、その運命から逃れようとする人々は「愛」を内に秘めて戦い、ある者は悲劇のうちに人生を無理やり終わらされ、またある者は「不寛容」に打ち勝ちます。グリフィス監督が描きたかったのは、「不寛容」よりも、むしろ「愛」だったのではないか。  4つのエピソードについて語っていきます。「キリスト受難」については多くは語られていません。教会に遠慮したのか、検閲のためなのかもしれません。水をワインに変える最初の奇跡、街中を十字架を背負って歩くシーン、そしてゴルゴダの丘での磔のシーンのみです。 この作品の中で最もインパクトのあるのが、キリストの後のバビロンのエピソードです。このエピソードには全ての映画テクニックが詰まっています。何よりも驚くのがそのセットの巨大さと豪華さです。大きな城を完全に建ててしまっているのですが、城壁が90メートル以上もあり、下で戦っている何千人もの兵隊役のエキストラが米粒のように見えます。 しかもこの壁の幅も10メートル以上あり、戦車が壁の上を通っている映像を見たときは流石にグリフィス監督の狂気を感じました。そこからバビロンの王様が指示を出すのですが、彼の視線の先にあるバビロニアの街並みまでも地平線の果てまで作っています。無駄遣いもここまでくると立派なものです。 そしてこの映画で一番有名なものがこの城の内部の俗に言う「バビロンの空中庭園」です。石像や神殿の石柱のばかばかしいほどの巨大さに目を奪われ、庭園の豪華さと質感に圧倒され、ここにも溢れている民衆のけた違いの多さには言葉を失いました。これ以上のものは今後二度と作られることがないだろうと言うのが頷けます。 個人的にエジプトに旅行に行った折に、いろいろな巨大建造物や石像を見ましたが、規模の面では引けをとらないほどの大きさでした。勿論、本物の持つ歴史的な重さにはかないませんが、つい比べたくなるほどの壮大なセットです。 セットだけでも驚きますが、それ以上に見るものの眼を驚かせるのが画面を埋めている大量のエキストラです。何千人もの無名の人たちの人生の一瞬が、カメラを通して切り取られています。吐き気を催す映像でした。

 彼らが中心となって作り上げられたバビロニアの攻防戦の持つ迫力は凄まじく臨場感に溢れ、グリフィス監督の用いる俯瞰撮影、カットバック、クロース・アップ、移動撮影などの演出効果とあいまっての一大スペクタクルに仕上がっています。壮大な無駄遣いがもたらしたスペクタクルの見本です。戦闘シーンでの残虐な描写も数多く驚きながら見ていました。俯瞰撮影は気球を使って撮られたそうです。  3話目のメディチ家による大量惨殺事件ですが、他のエピソードに比べると陰が薄い題材にもかかわらず、その陰惨さは群を抜いて陰湿であり、メディチの女帝の気味の悪さには嫌悪感がありました。宗教がらみで虐殺が平気で行われるのは今も全く変わっていません。人間は変われるのか。答えは出ていません。  第4話は近代から今も続く資本家と労働者の争い、偽善者の傲慢さが描かれています。偽善者と資本家のために職を失った労働者を、社会全体が更に不幸の底へ落とし込んでいきます。何が正義なのかを激しく訴えます。このエピソードでも革命的な撮影手法がとられ、機関車と車のカーチェイスやカットバックによって緊張感を上げていき、見るものを作品にのめりこませます。処刑までの時間との戦いをカットバックが見事に盛り上げています。

 グリフィス監督が示した人類の課題である「不寛容」と、それへの解決策となる「愛」。戦いや争いの後の戦車や刑務所に咲き誇り、埋め尽くす綺麗な花々のイメージは人類の悲願である天国なのです。殺し合いを経ないと達成できないことも同時に示される美しくも悲しい映像でした。

デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith)

 1875年1月22日、ケンタッキー州ラグレーンジに生まれる。父親は南北戦争における南軍の英雄ジェイコブ・ウォーク・グリフィス大佐。彼は大きな農場を経営しており、州議会議員も務めていたが、戦後に没落し、グリフィスが10歳の時に亡くなっている。そのため少年時代は困窮を極めていたが、両親から高い教育を受けていた。

 エレベーターボーイやルイヴィルの本屋の店員など様々な職を転々としていたが、慈善公演の舞台に立ったことから地方劇団に参加し、俳優として活動しはじめた。31歳のときにはニューヨークに進出し、1906年に女優のリンダ・アーヴィドソンと結婚した。その一方で舞台の演出家を夢見ていたグリフィスは、戯曲や詩を書いて売りこんでいたが、金銭的に行き詰っていたため、1907年に自分の脚本をエジソン社のエドウィン・S・ポーターに売り込んだ。脚本は不採用となったが、俳優として採用され、同年の『鷲の巣から救われて』の樵役で映画デビューを果たした。

 このエジソン社で映画製作のノウハウを学んだが、自らの脚本が採用されないことに鬱々としていたため、1908年にバイオグラフ社に自分の脚本を持ち込んだ。すると会社は彼の素質を認め、グリフィスは妻リンダとともにバイオグラフ社に入社することとなった。始めは夫妻で俳優として活躍する傍ら、数十本のシナリオを執筆した。同年6月、バイオグラフ社の撮影技師ビリー・ビッツァーに誘われたことから、『ドリーの冒険』で監督デビューした。後に長編の大作を手がけさまざまな撮影技法を駆使していったが、デビュー作の『ドリーの冒険』は正味15分ほどの短編映画であり、映画はヒットした。以降バイオグラフ社の監督としてビッツァ―とのコンビで1913年までに450本以上の短編映画を手がけた。

 デビュー作の『ドリーの冒険』は少女が誘拐され樽の中に入れられるが、その樽が川に落ちて流されていくというストーリーで、まだワンシーン・ワンショット撮影による作品であった。1909年の『小麦の買い占め』は社会派劇で、金持ちの小麦の相場師と貧しい小麦農家を対比して描いている。同年の『インディアンの考え』はインディアンの目線で白人との対立を描いている。1910年の『境界州にて』『鎧戸の締まった家』は南北戦争もので、1911年の『老人たちをどうすべきか』では悲劇的な作品も作っている。1912年にはカルフォルニアでロケを行った2巻物の『大虐殺』を発表しており、群衆場面においてロングショットの効果的な使用がみられる。

1913年、自身初の長編作品『ベッスリアの女王』(別題:アッシリアの遠征)を製作するが、当時はまだ長編映画が普及しておらず、会社はこの作品をお蔵入りにさせた(長編映画も普及しだした翌1914年にこちらもお蔵入りにされていた『大虐殺』とともに公開された)。さらに会社はグリフィスに長編映画を製作させなかったため、グリフィスはバイオグラフ社を退社してハリウッドに渡り、ミューチュアル社と契約を結んだ。

 1915年、ミューチュアル社のハリー・エイトケンとグリフィスが創設したエポック・プロデューシング・コーポレーションの出資で『國民の創生』を製作。KKKの誕生物語を南部白人の立場から描いた物語だったため、北部においては上映拒否されたり、黒人の差別描写で物議を醸したが、作品自体は大ヒットした。

 同年7月、ミューチュアル社から追放されたエイトケンが配給会社トライアングル社を設立。マック・セネット、トマス・H・インスとともに招かれたグリフィスは、トライアングル社傘下の製作会社ファイン・アーツ社の製作責任者となり、1916年に『イントレランス』を製作した。四時代の物語が同時並行的に描かれるという当時としては革新的な作品だったが難解との評判を呼び、アメリカ本国では商業的に失敗した。しかし現在では映画史上最大の古典として語り継がれている。1917年、『イントレランス』の失敗などの影響で、トライアングル社は製作を中止した。

 1919年、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を創設、自由な映画製作を目指して『散り行く花』『東への道』などを発表していった。しかし、完璧主義者で保守的な映画製作に拘ったグリフィスは時代の流れについていけず、人気も凋落していった。

 1930年に初のトーキーとなる『世界の英雄』を発表するも、翌1931年の『苦闘』は興業的にも批評的にも大失敗し、これが最後の監督作となった。この頃からすでに彼は世間からも映画界からも忘れ去られた存在となっていた。1948年7月23日、ロサンゼルスのホテルで脳溢血のため死去。

リリアン・ギッシュ(Lillian Gish)

母親が女優だった縁で、5歳から舞台に立っていた。妹のドロシーも女優。友人だったメアリー・ピックフォードを訪ねてバイオグラフ社を訪れた際、彼女にD・W・グリフィスを紹介され、母と妹と共に映画に出ることになった。その後もグリフィスとコンビを組み、サイレント映画を代表する大作『國民の創生』や超大作『イントレランス』に出演した。D・W・グリフィスに対して、リリアンは一生敬愛の念を持っていた。

 1919年の『散り行く花』では、幸薄い少女ルーシーを演じる。この作品により映画は第八芸術として世に認められたと言われる。

 1920年には、妹のドロシー・ギッシュが主演の『亭主改造』を監督するも、監督作品はこの一作のみである。なお、ドロシーとは私生活でも大変仲が良く、他の女優ではヘレン・ヘイズなどとも親交が深かった。

1921年の大作『嵐の孤児』を最後にグリフィスの元を離れた後、初期メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのスターとして、ヴィクトル・シェストレム監督作品の『真紅の文字』(1926年)や『風』(1928年)に出演。サイレント期を代表する女優として活躍する。

 1930年代以降は舞台出演が主になっているが、時折映画にも出演。1987年公開の『八月の鯨』(リンゼイ・アンダーソン監督)では、90歳を超えているとは思えない若々しい容姿で瑞々しい演技を披露した。

 1993年2月27日に老衰で没。生涯独身であった。


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