12 Angry Men(邦: 12人の怒れる男)[1957]
監督 シドニー・ルメット
脚本 レジナルド・ローズ
製作 レジナルド・ローズ
ヘンリー・フォンダ
出演 陪審員1番 マーティン・バルサム
陪審員2番 ジョン・フィードラー
陪審員3番 リー・J・コッブ
陪審員4番 E・G・マーシャル
陪審員5番 ジャック・クラグマン
陪審員6番 エドワード・ビンズ
陪審員7番 ジャック・ウォーデン
陪審員8番 ヘンリー・フォンダ
陪審員9番 ジョセフ・スィーニー
陪審員10番 エド・ベグリー
陪審員11番 ジョージ・ヴォスコヴェック
陪審員12番 ロバート・ウェッバー
裁判官 ルディ・ボンド
守衛 ジェームズ・ケリー
被告人 ビリー・ネルソン
音楽 ケニヨン・ホプキンス
撮影 ボリス・カウフマン
編集 カール・ラーナー
配給 ユナイテッド・アーティスツ
上映時間 96分
<あらすじ>
18歳の少年が父親殺しで起訴された。一見して有罪とわかるほど簡単な事件に思えたため、事件を審議する12人の陪審員のうち、11人の結論は有罪で一致。しかし、8番陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが有罪の根拠がいかに偏見と先入観に満ちているかを主張する。猛暑の中、エアコンの無い蒸し暑い部屋で議論する12人。審判には12人全員の一致が必要で、一致するまで部屋を出ることができない。有罪を主張する11人は8番陪審員を説得しようとするが、事件を調べれば調べるほど少年の無罪を示唆する証拠が浮かび上がって来て、本当にこのまま有罪にしていいのか疑問を抱き始める。
シドニー・ルメット監督(『狼たちの午後』『プリンス・オブ・シティー』など)の1957年の作品。ヘンリー・フォンダが歴史に名を残す名優であるということは、モノクロ映画を愛好する人々ならば誰でも知っていることです。カラーでも娘のジェーンと共演した『黄昏』などの幾多の作品での彼は、まさに不世出の俳優です。当然ここでもトップのクレジットは彼のものです。しかしこの作品での彼は真の意味での主役ではありません。 では誰が?それは敵役を務めたリー・J・コッブです。典型的な頑固で偏見に満ちたアメリカ白人。彼は差別論者であり、他の十一人を威嚇しながら裁判の評決での主導権を握ろうとする。彼は威嚇をする。彼は是が非でも被疑者を有罪に持ち込もうとします。彼は常に感情的で激情を隠そうとしません。 他の陪審員もそれぞれの特徴を持っています。日和見する人、偏見に満ちた人、自分の意見を言葉にするのが苦手な人、内気な人、何も考えていない人、少数民族、移民、論理的な人、受動的な人、そしてあくまでも客観的な事実の積み上げと自分の信念に基づき意見を述べる人。陪審員の行動・思考パターンの典型を示してくれているのです。キャラクターの描き分けがしっかりしていて、思わずうめいてしまうほどの素晴らしい脚本です。脚本がしっかりしている映画は、それだけでも十分に見る価値のあるものです。 一方のヘンリーは論理的で、感情に流されること無く事実のみを積み上げていきます。有罪であるか、それとも無罪であるかは感情でなく、事実が決めるのだという姿勢が終始一貫しています。他の人は、所詮は他人事であるためか、早く帰りたいために当初はいい加減な応対に終始します。それを反発を食いながらも一人ずつ説得していく過程。それがこの作品の見せ場です。十一人を一人ずつ説得し、彼の陣営に加えていきます。難点は彼だけがあまりにも優等生過ぎることです。 最後に用意されているのが不安定で感情的なリーと論理的で冷静なヘンリーとの言葉による一騎打ちの戦いでした。結果としてリーの敗北に終わるこの対決なのですが、まるで彼が犯罪でも犯したかのような錯覚を覚えるほどヘンリーの論理の刃はリーを追い詰めていきます。そこでは何故それほどにリーが容疑者を有罪にするために凝り固まった執着を見せるかの理由が語られます。
恐いこと、それは陪審員も人間であり、しかも彼らは法律のプロではないのに容疑者の生殺与奪の決定を下す立場にあるということです。映像としてみるとモノクロの重々しい黒と白の色調の中で、十二人のいかつい、むさ苦しい男達の荒い息づかいと汗の臭いが最初から最後まで画面を覆い尽くします。しかも部屋はとても狭く息苦しく、季節は夏のじめじめした雨の後、冷房は故障中という最悪の状況に全員が閉じ込められてしまいます。しかも自分のためでなく、見ず知らずの他人のために。画面には審議の持つ意味の深刻さと緊張感が深く、そして強く張り詰めています。90分間の間、見ているものは常に緊張を強いられる映画ではありますが、見終わったときに充実感を味わえる素晴らしい作品です。ベルリン映画祭の金熊賞を取ったのも頷けます。 拳銃を使わない西部劇。そんな感じのしたこの作品。何度見てもその都度味わえる深みを感じました。論理的な脚本、迫真の演技、緊張感を持続させる演出、閉鎖的な環境、現実音の持つリアリズム。派手さも恋愛もありませんが、これもアメリカ映画の素晴らしい一本です。
シドニー・ルメット Sidney Lumet
シドニー・ルメットは1924年6月25日にペンシルベニア州のフィラデルフィアで生まれた。彼の両親はポーランド系ユダヤ人で、イディッシュ劇場の演劇人だった。なお、父のバルーク・ルメット (Baruch Lumet) は息子が監督した『質屋』(1964年)と『グループ』(1966年)の2作品に出演している。幼少の頃一家でニューヨークに移り住み、以後そこを拠点にすることになる。
ルメットは4歳で子役としてラジオドラマに出演。5歳でイディッシュ芸術劇場の舞台を踏み、10代から子役としてブロードウェイの舞台に立った。1939年には映画にも出演している。1942年にコロンビア大学に入学するが、同時に陸軍に入隊し第二次世界大戦に従軍した。終戦後はオフ・ブロードウェイでイーライ・ウォラックやユル・ブリンナーたちと俳優グループを結成。このグループはのちにアクターズ・スタジオの母胎となったという。
俳優活動に飽きたらなくなったルメットは、1950年代に演出家に転向する。CBSで黎明期のテレビドラマの制作に手腕を発揮し、売れっ子演出家となった。この頃のルメットは5年間に約500本の作品を演出したという。テレビ局を辞めたあと、1957年に初の劇場映画『十二人の怒れる男』の監督を務める。ルメットはこの作品でベルリン国際映画祭の金熊賞を受賞、一躍人気監督の仲間入りを果たす。テレビ演出家から転じた映画監督としては草分け的存在であり、同時に非ハリウッド系の映画勢力であるニューヨーク派の旗手としての活躍が始まる。
1960年代のルメットは『夜への長い旅路』(1962年)や『質屋』(1964年)など、主に文芸作品の映画化で力を発揮した。『未知への飛行』(1964年)は冷戦時代に於ける核戦争の危機の本質を鋭く描いた作品である。1970年代には『セルピコ』(1973年)、『オリエント急行殺人事件』(1974年)、『狼たちの午後』(1975年)と次々に話題作を発表、名実共にアメリカ映画界を代表する巨匠となる。『ネットワーク』(1976年)ではゴールデングローブ賞 監督賞にも輝いた。
1980年代も精力的に映画を製作するが、1990年代においてはやや精彩を欠いた。特に『グロリア』(1999年)は主演女優のシャロン・ストーンがゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど駄作の烙印を押され、ルメット自身も終わった監督だと見なされる。しかし、最後の作品となった『その土曜日、7時58分』(2007年)では往年の緊張感溢れる演出が復活、批評家たちからも傑作と評価されルメット健在を印象付けた。
ルメットはアカデミー監督賞に4度、英国アカデミー賞監督賞に3度、カンヌ国際映画祭パルム・ドールに4度ノミネートされたが、これらはいずれも受賞には至らなかった。しかし2005年にはその生涯における業績を評価され、アカデミー名誉賞を贈られた。
2011年4月9日、リンパ腫のためニューヨークの自宅で死去。86歳没。
レジナルド・ローズ Reginald Rose
ニューヨーク州マンハッタン生まれ。タウンセンド・ハリス高校、ニューヨーク市立大学シティカレッジに在籍した後、1942年〜1946年にアメリカ陸軍へ入り、中尉となった。1950年に、CBSが製作した生放送の単発ドラマシリーズ「スタジオ・ワン(Westinghouse Studio One)」において、『Bus to Nowhere』という作品で初めてドラマ脚本を手掛けた。以降、同番組で多く脚本を手掛ける。
1954年、陪審制に基づき、ローズは殺人事件の陪審員に選出される。この時の議論は8時間にも及んだという。この実体験をふまえて、その後、陪審員によるディスカッションドラマ『十二人の怒れる男』を書いた。この作品は同年9月20日、フランクリン・J・シャフナーの演出により、「スタジオ・ワン」で生放送された。その後、エミー賞など数々の賞を受賞した。1957年には、シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され、こちらの脚本も担当した。
これ以外の作品でも、脚本が高い評価を受けることになる。1957年に「スタジオ・ワン」で放送された法廷もののドラマ『弁護士プレストン』は、1961年〜1965年に連続テレビシリーズとして、同局で製作・放送された。「スタジオ・ワン」で1954年1月11日に放送された『The Remarkable Incident at Carson Corners』という作品は、『ある町のある出来事』として日本語に翻案され、1959年10月18日にNHK教育テレビの「芸術劇場」で放送された(芸術祭奨励賞受賞)。また、1960年3月21日にも、ローズ原作の『結婚不案内』がNHK総合テレビで放送されている。1955年6月13日に「スタジオ・ワン」で放送された作品『ホーレス・フォードのふしぎな世界(The Incredible World of Horace Ford)』は、ハーバート・ハーシュマンの手により、テレビドラマシリーズ『トワイライト・ゾーン』シーズン4の第15話(1963年4月18日放送)にて、タイトルもそのままにリメイクされた。また1970年3月28日には、『河東寒吉のふしぎな世界』として日本語に翻案され、NHK総合テレビで放送された。
1950年〜1980年の間に、アメリカ3大ネットワーク(CBS、NBC、ABC)全てにドラマの脚本を手掛けた。さらにテレビドラマにとどまらず、映画作品の脚本も担当した。特に、イギリスの映画プロデューサーであるユアン・ロイドとは、『ワイルド・ギース』など4作品を手掛けた。
2002年、心臓麻痺の合併症で死去。
ヘンリー・フォンダ Henry Fonda
ネブラスカ州グランド・アイランドにて、印刷工場を営むクリスチャン・サイエンス教徒の家庭に生まれる。フォンダの家系は、1500年代にイタリアからオランダに移住、1600年代にオランダからアメリカに移民してきたという。生後6ヶ月で、同じ州のオマハに移る。幼い頃から絵や文学の才能に恵まれ、12歳の時にはニュース映画で映画デビューを果たす。セントラル高校卒業後、新聞記者を目指してミネソタ大学でジャーナリズムを専攻するが卒業はせず、母親の友人であったドロシー・ブランド(マーロン・ブランドの母親)の紹介で20歳の時にアマチュア劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスに参加、1925年に初舞台を踏む。いくつかの地方巡業の舞台で活躍した後、小売信用会社で働き始める。しかし、演劇の魅力が忘れがたく、ついに仕事を辞めて演技の道を選び、1928年にサマー・ストック劇団ケープ・プレイハウスをへて、ユニバーシティ・プレイヤーズ・ギルドに参加、そこで妻となるマーガレット・サラヴァンや、同じく俳優を目指すジェームズ・スチュアートやジョシュア・ローガンと出会うことになる。1929年には『The Game of Life and Death』の通行人役でブロードウェイにデビュー。
1933年にローガンやスチュアートと共にニューヨークに向かい、アパートメントを借りてルームメイトとして生活しながら、その後は様々な劇団で地方の舞台への出演や舞台装置家として働いていて演技を磨く。1934年に『New Face』というショーで認められたことがきっかけで、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢される。この舞台の成功によってハリウッドに招かれ、1935年にヴィクター・フレミングの同作の映画版で映画デビュー。その後 ヘンリー・ハサウェイの地方ロケ初のカラー映画『丘の一本松』、ベティ・デイヴィスと共演した『或る女』や『黒蘭の女』、フリッツ・ラングの逃避行ドラマ『暗黒街の弾痕』、ジョン・フォードの青年時代のリンカーンを演じた『若き日のリンカン』や南北戦争を舞台にした恋愛ドラマ『モホークの太鼓』など、数年の間に数々の話題作に出演。いかに難しい役でも完全にこなしきる力を持っていたため、フォードは安心してフォンダに役を任す事が出来たという。
20世紀フォックス社と7年の専属契約を結び、1940年には再びフォードと組んでジョン・スタインベックの小説の映画化『怒りの葡萄』に出演。主人公トム・ジョードは当り役となり、初のアカデミー主演男優賞にノミネートされた。1941年にはパラマウント社に貸し出されて『レディ・イヴ』に出演、普段の生真面目なイメージのフォンダからも予想もつかないドタバタ喜劇に挑戦し新たな一面を開拓した。『レディ・イヴ』出演後にアメリカ海軍に入り、3年の間、第二次世界大戦に従軍し、武功を上げてブロンズスターメダルと大統領感状が与えられる。
戦後、軍隊除隊後に再びフォードと組んで、OK牧場の決闘を描いた1946年の『荒野の決闘』でワイアット・アープを演じる。あまり自分の事は語りたがらないフォンダも「数少ない納得できた作品」と語っている。翌年の『逃亡者』と1948年の『アパッチ砦』でもフォードと組んで、ジョン・ウェインと並びフォード映画には欠かせない主演俳優となる。それまで契約していたフォックスとの契約が切れ、他のスタジオとの長期契約を嫌ったフォンダはブロードウェイに戻り、1948年にローガンの舞台『ミスタア・ロバーツ』で主演。上演回数1157回に及ぶヒットとなり、フォンダはトニー賞を受賞するなど、このロバーツ役はトム・ジョード、ワイアット・アープに続く当たり役となった。このように主に人間味豊かで善良な役を意欲的に演じ続け、ハリウッドでも息の長いスターとなる。特に英語の語り口は絶妙であり、とんとん拍子に数多くの傑作を自分のものとしていった。
6年ほどハリウッドから離れた後、スクリーンに復帰。復帰作である映画版の『ミスタア・ロバーツ』でもロバーツを演じたが、フォンダは撮影開始前から演出を担当したフォードのやり方に満足できず、終いにフォンダが彼の演出が間違っていると非難し、怒ったフォードはフォンダを殴りつけてしまいフォードとは決別、これが二人が組んだ最後の映画となってしまう。50年代は『シーソーの二人』や『ケイン号の叛乱』などの舞台や、テレビシリーズ『胸に輝く銀の星』など映画以外でも活躍。映画もオードリー・ヘプバーンと共演した『戦争と平和』、アルフレッド・ヒッチコックの異色サスペンス『間違えられた男』などに出演。ただ『戦争と平和』についてだけは彼はこの映画に出演した事を後悔し、自作の回顧上映ではこの映画を含めることを拒否したという。1957年には、元々CBSのテレビドラマ(レジナルド・ローズ作、フランクリン・J・シャフナー演出、ロバート・カミングス主演)であった法廷劇『十二人の怒れる男』の映画化に自身もプロデューサーを兼ねて出演、ベルリン映画祭では最優秀作品賞を獲得するなどこれまた映画でも高い評価を得た。
1960年代には多くの西部劇映画や戦争映画に出演。1964年の核戦争の恐怖を描いた『未知への飛行』で手堅い演技を見せ、1968年にはセルジオ・レオーネ監督の『ウエスタン』で初めて悪役に挑戦。 70年代以降は主演作は減り『ミッドウェイ』、『テンタクルズ』、『スウォーム』、『メテオ』などのオールスター映画にゲスト出演で止まる等、以前に比べて精彩を欠いた。1974年に心臓発作に襲われ、ペース・メーカーを入れる。また1979年には前立腺がんの手術を受ける。しかし70歳代になってもテレビや映画や舞台の出演は続けていた。この頃、1979年にピーターが監督した『グランド・キャニオンの黄金』にカメオ出演、1981年にジェーンが年老いた父親のために企画した『黄昏』でキャサリン・ヘプバーンと老夫婦役で主演、ジェーンも娘役として出演した。さらに同年の12月にはボストンのWCVB-TVのドラマ『夏の黄昏』に出演する。
1979年に長年の功績にトニー賞が贈られ、また1981年にはアカデミー特別賞を贈られた時は、まだ元気でロバート・レッドフォードの手からオスカーを受けていた。そして『黄昏』の演技により翌1982年にフォンダはアカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞を受賞、しかしこの時には体調がかなり悪化し、ジェーンが代わりに授賞式に出席した。結局この『黄昏』が遺作となって授賞式の5ヵ月後、77歳で心臓病により死去した。
リー・J・コッブ Lee J.Cobb
ルーマニアやロシアにルーツを持つユダヤ系の家庭に生まれる。父親は新聞の植字工であった。ニューヨーク大学で学び、1934年に映画デビュー。1935年にはマンハッタンをベースとする劇団Group Theatreに加わった。
アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』の主人公ウイリー・ローマンの演技でその名を知られ、舞台と映画の両方で活動した。1954年の映画『波止場』ではギャングのボスを、1958年の『カラマゾフの兄弟』では家長のフョードルを演じてアカデミー助演男優賞の候補にもなった。晩年に演じた役として『エクソシスト』でのキンダーマン警部がある。
1951年、俳優のラリー・パークスが下院非米活動委員会で証言した際、パークスが共産党員告発した中にコッブの名前もあった。コッブは2年間委員会での証言を拒否し続けたが、ブラックリストに載せられると脅迫され、最終的に20名の元共産党員の名前を挙げることになった。
1976年、心臓発作で死去。