写し絵
江戸時代の日本には、技巧を凝らした手作りの遊びが豊富にあった。その一つが影絵である。照明が不十分だったこの時代には、人々は夜の闇が醸し出す不気味で神秘的な雰囲気に敏感であり、その不気味さを克服するには闇に光で戯れる影絵は有効な遊びだったに違いない。もう一つ、日本の家屋には障子がたくさんあり、影絵のスクリーンとしてこれを手軽に活用できたということがある。
一番一般的だったのは手影絵である。手頃でいろいろな形を作って障子などに写して見せるのである。指をこう曲げるとこんな動物の形になるといった図を書いた絵本が盛んに出版され、影絵の形から元の手の指の組み合わせかたを工夫させるなどして楽しませた。山本慶一の『江戸の影絵遊び』(草思社)によればこれらは17世紀半ばから流行し始めたようで、時期的に日本家屋における火燭の利用の発達や明かり障子の普及と見合っている。
次いで人体や衣類や道具を使った影絵があり、茶屋遊びの酒屋の座興になったりしたが、1730年に出版された『影絵姿加々見』はその図録であり伝授書である。
18世紀末から19世紀はじめには、切り抜きの影絵が出てくる。さらにそれを、一瞬にして別の絵に変えたり、様々な工夫によってそこに動きを作り出したりするようにもなる。1785年の『摂陽奇観』という本に記載されている幽霊蠟燭というのは、蠟燭に仕掛けがしてあって、それを燈すと障子に幽霊の形が現れて消えるというものだった。
諸外国では、影絵芝居が発達したが日本ではそれほどでもなかった。ただ17世紀後半にオランダの幻燈が日本に伝えられ、これがやがて日本で独自の発達をとげ、幕末から明治初期にかけて盛んに興行された。関東ではこれを写し絵と言い、関西では錦影絵と言った。錦と言ったのはこれが色彩鮮やかな見世物だったからである。これは、畳一枚ぐらいの横長の美濃紙のスクリーンに、見物席とは逆の方向から、フロと呼ばれる数台の木製の幻燈器で人物や景色を写し出すものである。絵はガラス版に描かれ、ガラス版自体もまた幻燈器も動けるようになっていて、スクリーンの上でかなり面白い奇抜な絵の動きを演出することができた。人間の手が上下に動き、花が瞬時に満開になったりした。これに下座音曲や語りまでつけて、劇場でやるような芝居まで上演したのである。山本慶一は
フロの前後の移動やシャッターに相当する機構の操作で、ズーミング、オーバーラップ、フェイドイン、フェイ
ドアウトなどの映写技法が随時用いられ、その技法は近代映画芸術の先駆ともいえるだろう。ワイド画面での
カラーのアニメーションが江戸時代に庶民の手によって完成されていたということは驚きである。ちなみにこ
れは世界的にも最も早い例で、アニメーション史の第一ページをこの写し絵が飾っている。(前掲書)
と、これを高く評価している。スライド式に重ねてあるガラス版を瞬時の入れ替えると人物の手足や顔が動いているように見え、また登場人物ごとに一台のフロ(幻燈器)を使って数人の操作者がそれぞれ一台ずつ、手持ちで動かすことで人物を移動させることができる。有名なジャワの影絵などが明るいスクリーンに黒い影の人物を動かすものであるのと逆に、暗いスクリーンに色彩豊かな人や物が写って動くところが妖しい魅力である。
山本慶一によれば
写し絵は江戸では…鳴物口上入りの芝居仕立てのやり方が普通であったが、江戸近郷の八王子あたりでは説経
節で演じられ、大阪や京都では浄瑠璃、新内、長唄の歌舞伎調や掛け合いの落語調、時には浪花節に合わせた
り、河内音頭や江州音頭のくどき文句が地に用いられたりした。山陰では浄瑠璃の段物のほか、「花もの」
「山もの」「手踊り」など、これといって筋のない演し物を影絵節(西洋安来、さんこ節、博多節、ヨシヨシ
など、影絵芝居の地として唄うものの総称)に合わせて映し、これが最も観客に喜ばれたという。(前掲書)
写し絵、または錦影絵と呼ばれる見世物は1890年代まで興行されていたが、映画の普及によって滅びた。他に1900年代初期には、日露戦争などの戦場の大スペクタクル・シーンを模型で見せるパノラマや、小さな穴から覗くと次々に変化する絵物語をバラードのような歌物語の説明入りで見ることができる覗きからくりという見世物も流行して、やがて滅びている。ふつう、覗きからくりの絵は毒々しいまでに強烈な色彩感覚を持ち、いまで言うキッチュな美意識の極致がそこにあった。またその説明の文句には独特の哀調のあるフシがついており、1947年の小津安二郎の『長屋紳士録』の中には笹智衆がこれを歌って聞かせる名場面がある。これらが映画のようなものであった以上、より精巧な見世物が現れればそれにとって代えられるのは当然であろう。
影絵から写し絵(錦影絵)、さらにパノラマや覗きからくりへの歴史は映画全史として重要である。しかし影絵が発達して映画になったわけではないし、映画が普及することによって滅びたのもそれらの芸能だけではない。映画が19世紀末に輸入されてから急速に普及してゆく過程で、それに喰われるかたちで衰退していったのは大衆的な演劇と寄席と各種の見世物であった。映画は写し絵だけでなく演劇や寄席や見世物の多くの部分を鳩首して成長したのである。日本映画の歩みはそれら先行諸芸能と無関係ではない。映画の前史として、映画が吸収した先行の諸芸能について、ある程度の考察をする必要があるであろう。