8 1/2[1963]
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
トゥリオ・ペネッリ
エンニオ・フライアーノ
ブルネッロ・ロンディ
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
出演 マルチェロ・マストロヤンニ
アヌーク・エーメ
クラウディア・カルディナーレ
一度でこの作品の良さを味わいつくせるものが存在するとすれば、それは映画の神様でしょう。難解かつポップな作品です。一見すると軽く見えるのですが、近寄ると火傷する重厚感を持つ作品です。重苦しさと軽薄さがひとつの作品に同居しています。簡単な筋書きを書くと、スランプの映画監督が、温泉地に来て静養しながら、次の映画の構想を練る。そこに会社や愛人が追いかけてきて彼を追い詰める、というストーリーです。 しかし、この映画はストーリーを追いかけていくような見方をすると必ず跳ね返されてしまいます。感覚を研ぎ澄ませて見てみると、かなり楽しくイメージに浸れます。映像感覚と異化の面白さを楽しむ映画です。フェリーニ監督の映像へのセンスと音への愛着。素晴らしいの一言です。どう形容してよいのか言葉に苦しみます。これは何度も繰り返して見て、噛み締めて徐々に良さが解ってくればそれでよいのです。アメリカ映画を見るような単純なストーリー追っかけの見方をすると全く楽しめない作品かもしれません。 「そんなに物語が見たければ、小説でも読みやがれ。俺は映画監督だ。映像と音を楽しめ」
こういわんばかりのフェリーニ・ワールドです。 オープニングの「車からの脱出と空中浮遊」、それに続くヘリからの「バンジー・ジャンプ」、「温泉場での喫茶シーン」、鞭で女を手懐ける「ハーレム」のシーン、墓穴を掘る親達、発射台での大団円。見事な映像美の世界。映画美を浴び続けることの楽しさは言葉では表わせません。空想と現実を行ったり来たりする「グィド」すなわちフェリーニ監督の頭の中は、絶えず妄想に継ぐ妄想、繋がらないイメージの断片の固まりばかりで、神経衰弱状態であり、現実面での家庭、製作、契約上の揉め事も加わって、そこから逃避したい衝動を無理やり押さえ込んでいるような状態に見えます。ただ凡人と違い、魔術師と呼ばれる彼の映像の数々はこうした断片を見るだけでも随所に非凡さ、天才を感じ取ることが可能です。彼の紡ぐ映像のイメージはとても美しく、棘があり、麻薬のような習慣性があります。逃げられない映像が次々に現れます。台詞もまた、映画製作をしている監督が主人公なので、ストーリーも業界裏話のようです。見ていて思わず唸ってしまったものをいくつか挙げておきます。一見すると自作に対する自己批判のように見えるのですがどうも底辺には皮肉めいたものを感じます。 何故ならばこれらはおそらく、監督自身が会社やら批評家に浴びせかけられたものを面白おかしく、舌を出しながら悪戯っぽく言い返しているように見えるからです。いわく。
「最大の欠点は基本構想の欠如。思想性も無い。意味の無いエピソードの羅列だ」 「曖昧なリアリズムは面白いが、君の狙いはなんだ。観客を恐がらせることか」 「前衛映画としての長所も無く、その欠点のみを持っている」 「独りよがりは困る。観客にわかる映画でないと」 「こんな発射台に8000万リラもかけるなんて。書割で十分だ」 以上、台詞より。
見ていてぞくぞくしました。今の映画でも通用する考え方のなんと多いことか。現実と空想の間のせめぎ合いで、素晴らしい作品が生み出されてきたことをはじめて観客は知らされます。8つの長編と1本の共同作品、これを示すのが『8 1/2』。彼のこれまでの映画製作の総決算、それがこの作品。 映像は素晴らしい。では他の要素はどうだろう。演技はどうか。名優マルチェロ・マストロヤンニの出演した中で最高のものを挙げよと言われれば、間違いなくこの作品はベスト3に入ってくるでしょう。ふらふらと漂うように、しかも深刻に悩む男。純真さなどは皆無で、恥にまみれて、こすっからさとセンスだけで生き抜いてきたイタリア人。見事です。脇を固めるクラウディア・カルネバーレ、ヌーク・エーメも彼をしっかり支えています。名画になる条件の一つには主役以上に脇役の人たちが、どれだけ作品で生きているかがとても重要ですが、彼らには本当に存在するような生命が宿っています。 音楽性もまた群を抜いています。サーカス一座の子供(フェリーニの童心の隠喩か)の笛もとても印象的なものでしたが、最も目と耳について離れないのは、実は湯治場でのマダム達の登場シーンと喫茶のシーンでかかりつづけるワーグナーの『ワルキューレの騎行』です。なぜここでワルキューレなのか。ワルキューレはたしか同名オペラの中の曲で窮地に陥った主人公を助けに行く時に演奏される曲であったと記憶していましたが、お茶を飲むだけのシーンに何故これなのか。異化効果を狙ったにしても、あまりにも突飛でした。まあしかし、これだけの違和感を見る者に与えたことも凄いことですね。ちなみにコッポラ監督が『地獄の黙示録』で使ったときにはアメリカ軍を騎士に見立てる傲慢さに腹が立ちましたが、映像と音楽の融合としては映画史上でもトップランクに入る出来栄えでした。 攻撃用ヘリコプター(科学)と森(自然)の対比による差異、女達の日常と音楽の差異。映像美としてはコッポラ監督が、作品の中の違和感と不安感の喚起ではフェリーニ監督がより効果的なのでしょうか。そしてこの作品には、個人的に最も好きな台詞があります。
「人生は祭りだ。ともに生きよう。」
この台詞が最も好きな台詞であり、この言葉こそがフェリーニ監督の最も言いたかった一言なのではないか。人生は辛いことばかりです。絶望することもしばしばです。しかし希望は持っていたいものです。この言葉はまさに癒しの言葉であり、フェリーニ監督のマジック・ワードです。嫌でも何でも、社会人ならば、一緒に生きていかなければいけない人は沢山いるのです。嫌だからといっていちいち別れていては社会は成立しません。甘いも酸いも知って、初めて大人なんですね。この言葉とともに、何度もフェリーニ監督の祭りに参加しているような錯覚を覚えます。ラストの大団円には彼に関わった全ての人が蘇り、ともに歌い、踊ります。円になって。敵も味方も。全ての人はかけがえの無い人生の円の一部なのかもしれません。 最高の映画です。何度でも見れます。ストーリー構成が難解なので、万人向けとは言いかねますが映像美とは、映画とはなんであるか知るには必ず見るべき作品です。