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Pulp Fiction [1994]


監督・原案・脚本 クエンティン・タランティーノ

原案 ロジャー・エイヴァリー

出演 ジョン・トラヴォルタ

ブルース・ウィリス

ユマ・サーマン

サミュエル・L・ジャクソン

ハーヴェイ・カイテル

マリア・デ・メディロス

 1994年にアカデミー脚本賞、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した、『Pulp Fiction』、映画史に残る名作を紹介していきたいと思います。ネタバレがかなりあります。すでに観たことがあるよって人は、これを読んだ後もう一度観てみると結構面白いかも…

 さて、クエンティン・タランティーノの映画監督としての評価は、実は日本の方がその発見は早かったんです。『Pulp Fiction』の一つ前の作品、「Reservoir Dogs」を一生懸命プロモーションしたということもあってすごい評価されました。でも、アメリカではほとんど無視されて、「Pulp Fiction」でさえもヨーロッパで先に評価されてから、アメリカでは徐々に評価されていったんです。

 この映画、サミュエル・L・ジャクソンという俳優を見出したことがとてもでかかったと言われています。この人がいなかったら、アベンジャーズしかり、スターウォーズしかり、今のアメリカ映画はどうなっていたのか分からないと言われるほど、、すごい俳優を見つけたと。ん?誰かわからない…という人には、『スターウォーズ』のマスターウィンドゥと言えば分かるかな。『Pulp Fiction』より前は、エディーマーフィーが出てた映画、 『星の王子ニューヨークへ行く』で、ハンバーガー屋に強盗に入るシーンに出演していたり、脇役の人でしたが、オーディションでタランティーノと意気投合して役を勝ち取ったんだとか。そして、サミュエル・ジャクソン扮する殺し屋はすごいインパクトを残しました。本当は、ジョン・トラヴォルタを復活させるための映画だったのですが、サミュエル・ジャクソンが大スターになってしまったんです。

 タランティーノは監督になる前はレンタルビデオ屋で働いていて、その頃に知り合った友人、ロジャー・エイヴァリーと一緒に脚本を書きましたが、ロジャー・エイヴァリーの主張では、「『Pulp Fiction』の有名なシーンのかなりは俺のアイデアだ」と。二人で一緒にアカデミー賞を獲ったのですが、友達としてはその後決別してしまったのは有名な話です。

 ここから映画の中身についての話をしていきましょう。『Pulp Fiction』の背景には、実はフランス映画の「ヌーヴェルヴァーグ」があります。ヌーヴェルヴァーグには種類が様々あるのですが、その中でも、ジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーが作った幾つかの映画で、例えば、『ピアニスト』『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』『はなればなれに』とかいった作品。観たことある人は少ないと思うけれど。ヌーヴェルヴァーグの人たちが何をやったのかというと、1940~50年代にかけてアメリカ映画が作っていたB級アクション暗黒映画、所謂「フィルムノワール」をフランスで、独自のやり方で作ろうと試みたことで、ヌーヴェルヴァーグ系のノワール映画を作ろうとしていたんだとか。でも、ギャングが銃を持って悪いことをするという従来の話ではなく、すごく変な話になってしまったのがヌーヴェルヴァーグ。タランティーノはそれを今度はアメリカでやろうとしました。ヌーヴェルヴァーグは今では芸術映画、アート映画になっていますが、元来彼らがやろうとしていたのはB級犯罪アクション映画。そして今度は逆にアメリカでそれをエンターテイメントにしようとしたのです。

 タランティーノが一番影響を受けたのがゴダールのモノクロ映画『はなればなれに』(1964)でした。この『はなればなれに』という映画は簡単に言うと、二人の若いギャングの男の子と一人の女の子の話。ドロレス・ヒッチェンズの小説『愚か者の黄金』が原作で、アウトローみたいな犯罪をするんですけど、最後は男の子の一人が撃たれて、もう一方の男の子と女の子が逃げていく。一番最後、映画が終わったところで、”このパルプフィクションは”という字幕が出てくるんです。そこからこのタイトルをつけている。パルプフィクションであるという自覚がゴダールにはあったんですね。残念ながらその続編は作られませんでした。『はなればなれに』の後パルプフィクションをやろうとしたんですよね。ゴダールは。ところが続編として、アメリカに行った二人がギャングをやるみたいな話は字幕だけ出て、作られることはなかった。それを本当にやるのがこの映画。

 パルプというのは、すごく質の悪い紙に印刷された三文小説のこと。その頃、1940年代のフィルムノワールの多くがパルプフィクションと言われているゲテモノ小説の映画化だった。どういったものかというと、ペーパーバッグでアメリカの兵隊がよく持っていた、昔の神田で売ってあったようなやつ。大抵女の人がいてエッチな格好をしていて、拳銃があるようなもの。世界中にアメリカ兵が戦争の後行きましたから、みんなポケットにこのエロと拳銃の暴力の小説を入れていて、読み捨てる。ただみたいなものなので。読み終わった後に捨てていくんですよ。古本屋に売っぱらったり。そうやってパルプフィクションは1945から50くらいまで世界中にばらまかれた。フランスにもドイツにも日本にもアメリカ兵は駐留していました。そのペーパーバッグを読んで、ただ同然で神田で売ってたんですね。日本人たちはそれを真似して小説を書き始めました。それが日本やフランスのハードボイルドの発祥。大藪春彦とか。片岡義朗とかはこれを読んで拳銃ものの小説を何本か書いてます。実際、生島治郎とか日本のハードボイルド作家たちは米軍が置いていったパルプフィクションを読んで書き始めたんですね。

 そういったものを現在やってみようと。古いジャンルのものを。ただ、真正面からアクション映画として撮るのではなく、ふざけた取り方をしているんです。一つは、時間軸がめちゃくちゃなところですね。この映画、最初はティム・ロスという俳優とその彼女が、ファミレスで強盗するところから始まる。この次がジョン・トラヴォルタとサミュエル・ジャクソン扮する殺し屋たちが、ヤクザのボスから大事なトランクを盗んだ学生たちのところに取り返しにいくという、ヴィンセントとジュールの話なんですね。そのあとはヴィンセントがミアっていうボスの奥さんの面倒を見て、一緒にレストランに行くという話があって、その次にブルース・ウィリスのボクサーが八百長するかしないかの話があって、次にまた、ヴィンセントとジュールの、学生たちを締めた後ボスに報告しに行くというところで、ここでファミレスのところが繋がってくる。時間軸的にはブルース・ウィリスのところが一番最後。ただ、ブルース・ウィリスが八百長の打ち合わせをしているシーンは途中で出ている。まっすぐ進まない。どう組み合わせても噛み合わない感じになっている。このやり方は単に時間軸の真ん中の部分を一番下にくっつけたやり方ではない。それぞれがかみ合ってくるんで変な形で。これを、ロジャー・エイヴァリーがそのアイデアを出しているんですが、プレッツェルタイプ。プレッツェルって普通のループじゃないですね。2、3か所でクロスしてますよね。話の流れが。だからこんなわけのわからない感じになっている。最初はそういう風に考えていなくて、3つのエピソードを並べる、やってるうちにこことここくっつけた方がいいんじゃないか、とこういう形になったんだとか。

 もともとは『ブラック・サバス』というイタリアのホラーオムニバス映画があって、その頃、ホラー映画はイギリスとかイタリアとかで短い短編小説をもとに3つくらいのエピソードが繋がっている話が大量に作られました。アミカス・プロという会社がイギリスにあって、そおいうホラーしか作っていない。ホラーの物語の原作は大抵短編小説。江戸川乱歩とか。それをもとに映画化すると映画にならないので、短編3つを並べて、世にも怪奇な物語とかそうですけど、一つの映画にする。それをやりたかったと。パルプフィクションによくあるような話を3つ並べて映画にしようと2人で考えてたら、だんだんわけわからなくなってぐちゃぐちゃになっていったと。最初、トライスターという映画会社にシナリオを持って行ったらわけわからんから、時間通りに書き直せと言われたらしい。それをやったら意味ないですからって。あと全然本筋と関係ない話が多すぎる。それ全部取れ。それやったら意味ないです、と困っていたら、ミラマックスという会社のハーヴェイ・ワインスタインというプロデューサーがこのままやっていいよと引き受けた。立ち上げたばっかりでお金が全然なかったんですけど、この映画が大当たりして、200ミリオンの収益をもうけて、そこからミラマックスは映画会社として始まっていきました。その前からあったんだけれども、大会社になってから、『イングリッシュ・ペイシェント』とか、『恋におちたシェイクスピア』とか次々にアカデミー賞を取っていくような、アカデミー賞会社へと変わっていくんですが、軌道に乗せたのはタランティーノなんです。

 この映画の中に出てくる人たちは、現実にいねーよという人たちばかり。殺し屋とかいねーし、黒いスーツに細いネクタイして歩いてるけど、こんな奴いねーよと。現実にいない人たちが、現実にいるとおかしいじゃんという話をやろうとした。特に面白いのがみんなズラなんです。ヴインセント、ジョン・トラヴォルタはロン毛にしてるけど毛ないですから。サミュエル・ジャクソンはアフロみたいなカーリーにしてますけど、本当は100%カツラですから。全員カツラかぶってるのは、ありえないよとといってるんです。ジョークなんですよ一種の。もし日活映画に出てくるようなガンマンが普通にいたらどうなるという感じでやっている。

 もう一つは関係ない話が多すぎる。はじめに二人が出てきて道を歩きながら、ずっと話しているのはハンバーガーの話をしている。それが何かの伏線になっているかというと、特になってなくて、学生のところに行くと彼らがハンバーガーを食べていて、うまそうじゃないかと食うだけ。そこに何の意味もない。どうでもいい話を永遠としている。永遠と雑談をするんですよ。なぜそれをやろうとしたのかというと、やっぱりゴダールなんです。『気狂いピエロ』とかを見ると、本当にどうでもいい話をずっとしている。ジャンフォルヴェルモントとその彼女ヴィンセバーグがベッドのところでずっと話していることは本当に雑談なんですよ。ストーリーと絡んでくるかというとくるようなこないような、なくてもいいような。ハリウッド映画だったら絶対切られるんですよ。日本映画もそうですがストーリーと関係ない話は絶対主人公たちはしないですね。でもこれは関係ない話をずっとしまくる。雑談映画になっている。それがまたすごく面白いけど、ハリウッドのシナリオ方式だと絶対に許されないことをやっている。これがまたその後流行っていくわけですけれども。

 いろんなところがタランティーノの映画のオタク的な趣味でやっているために、ほとんどの人は何を言っているか分からないというとんでもない映画だったが、それが逆に映画ファン・マニアを生み出すことになった。あそこの言っていることはわからないから、ちょっと調べてみようと。タランティーノとしてはロジャー・エイヴァリーと一緒に遊んでいる時に喋っているようなことをやっているだけなんだけれど、それが新しい映画オタクみたいなものを生み出すということになった。これが多くのプロダクションだったら、それ意味わかんないよ切れ。と言われることを平気でやっている。だから例えば、映画のテーマレストランにミアとヴィンセントが行くシーン、そこでマリリンモンローみたいな人が歩いていると、あれはマリリンモンローのコスプレかい?と聞くと、あれはメイミー・ヴァン・ドーレンなんだよと。この人は1950年代にマリリンモンローのぱちもんとして売り出された女優でした。普通知らないですよ。アメリカ人でも。そんな人いったっけ?というくらいです。そおいう人たちはいっぱいいるわけです。分かろうが分かるまいがいいんだと。でも楽しそうな感じがするじゃないと。

 いろんなところを彼が好きな映画から取ってきているのだが、それがまたランダム。有名な映画からも誰も知らないような映画からもとっている。彼にとっては全てが同じなんですね。ヒッチコックの『サイコ』から拾っているシーンがある。ブッチが八百長からボクサーとして逃げていくところで、一番見つかっちゃ困るボスと車で鉢合わせしてしまうシーンがあるけれど、そこはサイコの中で一番最初のところで、会社の金をパクったヒロインがいきなり見られちゃうというところを真似してる。『サイコ』なんて誰でも知っている映画。超マニアックな映画じゃないところも取っているけれど、逆にドマニアなとこが、千葉真一の『影の軍団』というテレビシリーズから取っているシーン。最後のところでブルース・ウィリスがやっている殺陣。あれは千葉真一なんですね。ちょっと高倉健が入っているんですけど。また、すごく変なところから拾っているなというところもあって、ミアとヴィンセントが二人で踊っているシーン。あの踊りは『8 1/2』というフェデリコ・フェリーニの映画で、バーバラ・スティールというアメリカ人の女優が出てきて、それがフェリーニの友達のおっさんの若い愛人なんですけど、それはメインで撮っているわけではなく、本筋と離れて横で踊っているところを取っているんです。本当の筋じゃなくて、ここがいいからここを撮ろうよとすごい変なところから拾っているけれど、そこがかっこいいんですよ。サミュエル・ジャクソンの名前がジュールスなんですけど、トリュフォーの映画のジュールスとジムという二人組のジュールスから拾ってきている。すごく引っ張ってくるものがランダム。それまでの映画オタクだったら、ホラー映画好きとか、怪獣映画好きとかいう人はいたが、ヌーヴェルヴァーグ好きでサイレント映画も見てるし…、タランティーノはサイレント映画をいっぱい撮っている。日本映画も香港映画も全て見ている。彼にとっては芸術映画とかバカ映画とかとは思っていなくて、なんでも面白ければなんでもいいという、ビデオ屋の棚のような映画感覚になっている。ここから映画ファンが90年代にバーと出てきて、アメリカ映画としては70年代はじめと同じくらいすごい作家が連続して出てくる。ウォシャウスキー兄弟とかポール・トーマス・アンダーソン、デヴィッド・フィンチャー、デヴィッド・O・ラッセル、ウェス・アンダーソンとか、すごい時代ですね。90年だ代後半はハリウッドにとってすごい映画作家時代になった。その火付け役がタランティーノだった。これが当たったから、よく分からない映画を撮る映画オタクたちにお金を出そうと、彼らにお金がいくことになったんです。ハリウッドが投資に目覚めたことで、彼らが好き勝手映画を作れるようになった。そのきっかけを作ったのがパルプフィクションという映画だった。

 非常に印象的なシーンが幾つかあって、まず最初にサミュエル・ジャクソンがブツをパクって逃げた学生たちを脅すとこ。一番あそこが怖かったですね。何?って言ったら殺すぞ。what?って言ったら殺すぞと。whatと言っちゃうんですね。ボスのマーセルスはビッチに見えたか?と。雌犬に。何言ってんだろうと思うから何?って言っちゃうんですよね。それで撃たれちゃうんです。一生懸命弁解してるけどいきなり全然関係ない人を撃ち殺すわけですよ。ごめん。話の腰おっちまった。続けて。と、そんなことやられたら続けられねーよ。そこで、トイレにいたもう一人の男が出てきて玉をバンバン撃って、でも当たらない。ここのシーンはロジャー・エイヴァリーが書いたと。あと人質を連れて車の後ろに連れたとこで、後ろを向いてヴィンセントに話しかけている時に車が揺れて間違って引き金を引いて人質の頭が吹っ飛ぶ。これも。結構重要なところのアイデアを出しているんですよ。ブッチのお父さんが金時計をお腹の中に隠してお尻から出したやつを形見だと渡して非常に困ってしまう。これもロジャー・エイヴァリー。タランティーノが手柄を独り占めする形になってしまった。

 いろんなオマケみたいなところを隠しているので、一種のゲームの中にいろんな隠れキャラがいる感じですね。みんなその隠れキャラを探すという遊びで何度も映画館に観に行ったんだとか。「あれはなんだろう?」「あのシーンはなんだろう?」「あそこで後ろの方にいるやつはここで出ているんじゃないか」みんなが一番悩んだシーンは、マーセルスが最初頭の後ろしか出てこない時に、絆創膏が貼ってあるところ。みんなあの絆創膏はなんなんだ?と。真相は、役のヴィング・レイムズは、頭剃ってて切っちゃったんだと。なんの意味もない。みんな絆創膏はなんなんだと。絆創膏理論とか出してきて、一生懸命説明している人とかも出てしまう。でも意味があるところもあるから厄介なんです。

 ミアとヴィンセントがレストランに行く時に、ボスのカミさんだから話しにくくて困るというところで、彼女が「気まずい沈黙ってあるわよね。でも気まずい沈黙の時に無理に言葉を探して沈黙を埋めようとするのって、それすごくダサいじゃん」とか言う。沈黙してたらいいじゃん。しゃべんなきゃ。あれは何を言ってるのかというと、『はなればなれに』の中に出てくる。主人公3人だけが話してて、話すことないなと。じゃあ黙ろう。そのシーンでゴダールは何をしたかというと、完全に音を抜いてる。自然音も入らないで完全に無音にしている。それはすごくおかしい、特に映画館で見ると。それが元になっている。はなればなれにの中で一番有名なシーンは主人公の男女3人がマディソンダーツという当時アメリカで流行っていたダンスを踊る。『ヘアスプレー』の中で出てくる。みんな一斉に踊るんだけれど、あれをタランティーノが好きで、主人公たちに本当に楽しそうに踊っているのをやらせたいと、『8 1/2』のダンスを引っ張ってきて2人にやらせてる。トラヴォルタは『サタデーナイトフィーバー』に出てた人ですから踊りは上手い。

 タランティーノはトラヴォルタがその当時、『ベイビー・トーク』という家族向けの映画に出て稼いでいるのを見て、すごい嫌になってしまった。「あなたは昔すごいかっこいい俳優だったじゃないか。自分の特に好きな映画は『ミッドナイトクロス』というブライアン・デ・パルマの映画で、あなたはあの映画の中で本当に素晴らしい演技だった。だからあなたを俳優として復活させたい」と。ほとんどノーギャラで出て、トラヴォルタは実際に復活します。ブルース・ウィリスもその頃調子がよくなくて。やっぱり『ベイビー・トーク』に出ている。『ダイハード』以降、『ラスト・ボーイスカウト』とか結構しょっぱい映画が多くて苦しんでたところで、この映画に最低ギャラで出て復活しました。タランティーノの昔のかつてのスターを蘇らせるというのはその後も続きます。

 ユマ・サーマンが演じている役もカツラつけてやっている。一番変なとこはダンスするときに裸足になるところ。2人がボスのおくさんに足のマッサージをすることについてどうなんだと会話をするシーンがありますね。足のマッサージをすることはクンニリングスと同じなんだと。違うよと思いますよね普通。でもタランティーノにとっては同じなんです。『フロム・ダスク・ティル・ドーン』という映画を見ると、サルマ・ハエックがストリップダンサーとして出てきて、タランティーノが足をペロペロしてるんですけど、彼にとっては、足こそ性器という人なんで、、本当に変態なんです。だから足ばっかり映してて。『イングロリアス・バスターズ』で足を撃たれる女の人の役をやっていた女優ダイアン・クルーガーの顔を全然撮ろうとしなくて足ばっか撮っていたときには、彼女はすっごく頭にきたらしい。他の映画でもみんな女の人の足のアップがあって、でも女優たちはすごく嫌みたいだそう。足ってそんなに綺麗にできない。巻き爪になったり爪の形が崩れたりするんですごく恥ずかしいらしい。タランティーノは足を見してごらんとすっごい変な人なので、関係ない会話どころかお前にしか通じねーよという会話が入っている。

 ダグラス・サークについて語るところで、レストランに行ってステーキのいろんなメニューがいろんな映画のタイトルとかが監督名になっています。ダグラス・サークのステーキは外側がカリカリで、内側はすごく血が滴っているんだと。あれだけは映画に関するうんちくとかとは別次元の批評、ダグラス・サークという作家に対しての。ダグラス・サークは1950年代にメロドラマを作っていて、その頃婚愛映画を描くことは禁じられていました。人妻が他の男性を好きになることはダメでした。それは映画の中でさえ肯定されることはなくて、もし描いたとしたらその人は死ななければならなっかった。それくらい厳しかった。自主規制コードの中で、禁じられた恋愛というものをセックスまで行かないで非常に乾いた形で映画化したのがダグラス・サーク。でも心の内側では恋の火が、欲望がたぎっているという。外側はさっぱり乾いているんだけれども、内側はものすごく燃えているという映画を撮り続けた。『エデンより彼方に』という映画はダグラス・サークのそれを現代のタッチで作った映画(トッド・ヘインズ監督)。でもそのはるか前に『Pulp Fiction』でこのダグラス・サークを一瞬のステーキで論じている。それがただの彼のダジャレに過ぎないわけではないのは、その後の映画『ジャッキー・ブラウン』で、ダグラス・サークタッチっていうのをやったことからもわかる。中年過ぎの男女のキスがやっとの恋愛映画。でも心の中は燃えている。というダグラス・サークタッチをやってのけた。そおいうところはすごい監督。

 でも映画見まくって、相当詳しくないと意味わかんないよというところが多くて、最後の方の、ブルース・ウィリスが質屋で変態警官たちをやっつけるときに、預けてあるいろんなものを見て、武器を選ぶというシーンで、あれは映画マニアにとっての、ゲームで武器を選択するのと同じ感覚。電動ノコギリがあってハンマーがあって日本刀を見て、ピッピッピッピッピッピーンて日本刀選ぶじゃないですか。野球のバットも武器の選択に出てきて、あれは『ウォーキング・トール』というドゥウェイン・ジョンソンがリメイクした実話を基にした映画から。アメリカの田舎の保安官が野球のバット片手に地元のマフィアをバンバン殴り殺していったという。アメリカってどうなっているんだと、実話なんですから。映画が公開された後もギャング達の殺し合いが続いて死んだりしているらしいです。

 盗んでいったものはなんだかわからないということで、スーツケースをあけると中から光っていてウォーーーとなる場面ですけど、これは『キッスで殺せ』というロバート・アルドリッチの映画からきている。スーツケースの奪い合いの話。マイクドハマーという探偵が共産勢力に奪われた核兵器を探すという話。架空の時代の核兵器を巡った奪い合いの話なんですけど、スーツケースをあけるとライトが隠してあって、開けた人の顔がピカッと照らされる。中からものすごい光が出てくるというシーンがあって、それが元になっている。全然関係ないが、昔日活映画のSM映画で谷ナオミさんがでてくる映画で、それが貴婦人にうんこを我慢させてうんこをおまるにさせる。貴婦人の美しい人のうんこなのでみんな「うんこ」と呼ばずに「黄金」と呼んでいる。で黄金だ、とおまるを覗くとライトがあってガーと光るというシーンがありましたけど、全然関係ない。うんこといえば、ジョン・トラヴォルタお腹が悪いんですね。何度も何度もトイレに行く。ミアとあっている時もファミレス行った時も、お腹悪いからそれ大変なことになるぞと思ったら、トイレ行った時に撃ち殺されてしまいますね。お腹直しとけって話。トイレで呼んでいる本は漫画雑誌なんですけど、モデスティ・ブレイズという、峰不二子みたいな主人公がでてくる、セクシーな女泥棒の話。ジャンクスーツという体にぴったりした服を着ているキャラなんですけど、その後、『キルビル』の主人公のユマ・サーマンを狙う奴らが黒のタートルネックを着てでてくるがあんな感じ。

 ただ『Pulp Fiction』はギャング達の殺し合いの映画で、血まみれだし、言葉も汚い、やたら「ニガー」という言葉がでてくる。タランティーノが途中で出てきて「ニガー」って言うんで、白人のくせに「ニガー」というのは差別的だとすごく喧嘩になったりと、あまりよくない点もあって、その後彼は黒人のための映画を作るようになった。『ジャンゴ』なんかて黒人が白人をバンバン殺す映画がありますね。

 でも『Pulp Fiction』は意外と倫理の話だったりして。パルプフィクションとか言うから、チンケなB級物語かなと思うと、実は因果応報の話だった。最初に殺される学生たちはボスを裏切ってものをパクったやつだから殺される。その後もそうだが、なんか悪いことをした人は必ずその報いを受ける展開になっている。ブッチが八百長しないよと相手を殴り殺しているが、相手を殴り殺すのは、『ラストカウボーイ』が元ネタになっていると思う。一番面白いのがブルースウィリスが拷問されて、椅子に縛られてバンバン殴られてボコボコになりながら、「次殴ったらお前死ぬよ」という。拷問してるやつはおもしれえなとバーンと殴るといきなり下から拳底でそいつを殴ると即死しちゃう。「言ったろ」と言うんです、ブルースウィリスが。一撃で殴り殺すからネタとしてそういうのがあると思うんですけど。ブッチもボスを車で跳ねると拷問されちゃう。その後ボスを助けると許される。いいことすると許される。悪いことすると、ひどい目にあう。非常に倫理的な話になっている。学生の一人に撃たれそうになるけど玉が全部よけたのを見たサミュエル・ジャクソンは、「俺は今まで真面目に考えていなかったけど、こういうことはあるんだ、ミラクラなんだ。殺しはやめるよ。俺は自分の心を魂を求めて旅に出るんだ。燃えよ!カンフーのケインのように」何言ってるかわかんないよ普通。これは『燃えよ!カンフー』の主人公のデヴィド・キャラダインが西部の開拓地のアメリカを旅しながら、少林寺のお坊さんなんで自分の魂を求め続けているということをいっている。もう殺しは止めるべきなんだとジュールスがヴィンセントにいうと、何言っているかわからないと。でもヴィンセントは殺されちゃうわけです。強盗に関してもサミュエル・ジャクソンは、俺はお前たちの人生を買ってやるんだ。お前ら強盗とかやってないで、金もやるからこういうことはやるなと逃がす。それまでは殺し屋だったのに、実はすごく真面目な、道徳的な話をしている。その後、タランティーノは正義の監督になっていく。根底にはそこの部分があるんだなとよくわかる。

 サミュエル・ジャクソンが必ず人を殺す時にいう言葉、旧約聖書のエゼキエル書の25章17節を引用するというシーンがありますね。「心正しきものの歩む道は心悪しきものの邪な利己と暴虐によって行く手を阻まれる。愛と善意の名において暗黒の谷に弱きものを導く者は幸いなり。なぜなら彼こそは真に兄弟を守り迷い子たちを救う羊飼なり。よって我は怒りに満ちた懲罰と大いなる復讐をもって我が兄弟を毒し滅ぼそうとする汝に制裁を下す。そして我が汝に復讐するとき汝は我が主であることを知るだろう」これをなんで人を殺すときに言うかというと、また『影の軍団』なんですよ。千葉真一が人を切りながら、臨済宗かなんかの言葉を言う。「仏にありては仏を切り、父母にありては父母を切り」って言いながら戦うシーンがあってそれの真似をしたかったらしい。桃太郎侍ですよ。「一つ」ってやつです。日本には昔からあるんですよ口上というやつが。それを見てタランティーノはこれアメリカにないからかっこいいからやってみたいと。

 エゼキエル書の引用をしたということになっているがそんなこと書いてないんです。「我が汝に復讐するとき汝は我が主であることを知るだろう」としか書いてない。前のことは全然聖書には書かれていない。1973年に東映が作った、『ボディーガード牙』という千葉真一の空手映画がある。タランティーノは千葉真一が大好きで、『トゥルー・ロマンス』でもビデオ屋の店員のモテナイ男が自分の誕生日に千葉真一の映画を見るという涙無くして見れないシーンがある。73年に作られた『ボディーガード牙』をアメリカの映画会社が作り変えて、編集をし直して公開した。それの頭に出てくる口上なんです。だからわけわからないんですよ言っていることが。そおいうところが面白い。アメリカとか日本の映画評論家たちを試したわけです。エゼキエル書を引用したからこれは宗教的なんだと。してねーよ、と。キルビルの中でヘルメットかぶったユマ・サーマンが人をズタズタに切ってそこでかかる音楽が『柳生一族の陰謀』のテーマソングだったり。そおいうわけのわからないことをいっぱいやっている人なんですタランティーノは。

 いわゆる、ヌーヴェルヴァーグとかの映画を見て、シネフィルとか言っている人、映画評論家でカール・ドライアンとか見ている人たちを撹乱させる。映画というとみんなそれぞれ好みがあって、そういうものを全部壊して、なんでも見て、お前これわかんねーだろというところがあって、映画ジャーナリズムとかシネフィルとかに対して反逆的で。映画はみんなおもちゃ箱だから全部遊べばいいんだよと。ゴダールが偉いとかないから。ゴダールも楽しい青春映画も作っている。全てを階級とかヒエラルキーとか傑作とか駄作とかから解放する、彼がやったことは。それから世界中でみんなが好きなように映画を作るようになった、すごくいい革命を起こしたと思いますね、タランティーノは。


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